文化財など

 

有形文化財建造物(屯田兵屋)昭和50年7月12日指定

剣淵町屯田兵屋337戸は、他の大隊本部等の施設とともに、屯田兵入地前年の明治31年から翌32年にかけて建設を終え、同年7月、屯田兵とその家族2,000人余を受け入れている。
兵屋は間口5間(約9m)奥行3間半(約6.4m)立ち9尺(約2.7m)面積17坪5合(約57.7㎡)柾葺平屋で6畳と4畳半の座敷、6畳の板の間と土間7.5坪(約24.8㎡)からなり、障子または板壁で仕切られていた。
展示の内容、検討・充実する必要があると考えたボランティアらの努力により、昭和58年(1983)4月、市街地錦町末広公園内資料館横に移し、展示内容の整備が図られている。

 

天然記念物(開拓記念木)昭和31年9月1日指定

屯田兵が入植した時、既に一際ぬきんでた大木でモクセイ科の「やちだも」である。剣淵町にたどり着いた兵員、家族はこの樹の下で訓示を受け、熊笹の中の兵屋に向かったと伝えられ、歴史的に重要な樹木として指定した。
昭和43年の開道100年には北海道の名木100選に選ばれ、また本町開基80年の際は「町木」に選定された樹種である。
調査の結果、室町時代(1334年~1573年)の初期に芽生えた樹木ということで開基100年を経た時点では、推定樹齢は約640年になると考えられている。

 

天然記念物(緋鮒、銀鮒、鉄魚)昭和39年9月1日指定

これらの魚類は鮒が突然変異したものと言われている。通称「へび沼」「赤沼」「馬蹄沼」等と呼ばれる剣淵側や犬牛別の旧河川での発見が多いことから、剣淵が生息地と言われ、天然記念物に指定になった。一時、釣魚の盛んな頃は、緋鮒釣りを目当てにした団体バスツアーが来町した時期もあったが、現在は沼の水量減等の環境変化や生息する魚類の減少もあって、釣人の姿があまり見られなくなった。

 

史跡(元屯田兵射的場)昭和29年9月1日指定

北辺の警備と開拓の大任を担って入地した屯田兵の射撃訓練のための施設で、第7区6線道路沿いに、西3号のやや東側から西2号を経て丘陵地に至る幅30間(約54m)、長さ330間(約594mが当時射的場敷地で第3大隊の入地に先立ち、明治31年うっそうと繁った森林を切り開いて敷地の西端に高さ約4.5㎞の射弾止め土堤を南北に築き、これに沿って幅約2m、深さ約2mの観的壕(周囲に木ぐいを打ち込んだ堀)を配し、標的までの距離4段階(200,300,500,800ヤード)の射だ(しゃだ)を盛土で作った大掛かりな射撃訓練場であった。
屯田兵制度廃止となった明治37年4月以降は、周囲から開拓が進み、現存するものは高い土堤と観的壕、それに射?(しゃだ)が一ヶ所残るのみとなったが、この元屯田兵射的場は丸山神社を含む円山公園と一体化した形で存置されており、基まち開拓使を語る重要文化遺産の一つである。

 

史跡(舟付場)

屯田兵制度最後の屯田兵が明治32年7月に家族を従えて、剣淵町に2個中隊、士別に1個中隊入地した。このとき、和寒までは建設列車を利用していたが、それ以北は開削たばかりの道に足をとられながら、原始林や熊笹の生い茂る中を歩いてたどり着いた。
この場所は元東剣淵小学校の北側で、現在の国道40号線ぞいに位置している。この舟付場その後の道路開削や鉄道の敷設によって役割を終えたが、その時期については定かではない。

 

史跡(難波田橋)

開拓当時、剣淵町と士別の境界となる犬牛別川は、交通上の大きな障害であった。これを解消するために、屯田兵第4中隊の手によってこの川に初めて橋が架設された、橋芽衣は中隊難波田憲欽の名をとって名付けられた。この時の橋の規模等、定かな記録は残されていない。
いずれにしろ、当時の自然な環境からは、幾度か架け替えの歴史が刻まれたと推測されるが、旭川土木現業所の所管資料によれば、コンクリート床版橋の一次造橋は昭和10年に完成。橋長47m、幅員10mであった。その後、幾度かの改修を経て、昭和60年に築造し、橋長97m幅員10mの銅橋となって現在に至る。

 

史跡(元福井橋)

屯田兵が入地した当時の剣淵は、東部山沿いの低湿地帯を大きく迂回していた。そのため、旭川方面との連絡道路との建設には、どうしてもこの川を超す必要があり、元東剣淵小学校の北側付近に屯田兵第3中隊によってこの川に初めて土橋が架けられた。この時の中隊長が陸軍歩兵大尉福井重吉であったので、この橋を「福井橋」と名付けられた。
なお、福井橋は道路の改修整備や剣淵町の切り替えが行われて無くなった。

 

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